人生は「暇つぶし」という考えもある。
イチロー選手は、成績や記録を目標に努力しているのではなく、
「野球が上手くなりたい」から努力していると言う。
つまり、「成功」ではなく「成長」するために努力している。
「成功」という「目標」ではなく、「成長」という「目的」に向かって日々努力しているのだ。
イチロー選手の生きる目的や意味は、「成長」と言える。
自分が生きる上で、
「目標」や「目的」を持ち、それに邁進してもいいし、
それらを持たなくてもいいとも思う。
小さな「目標」をコツコツ積み上げていくというのもありだと思う。
昔、あるマラソンランナー苦しくなった時、視界に入ってくる「電柱」を目標に、
「後、一本、もう後、一本」と思いながら走りきったという逸話もある。
そんなもの無くても楽しくやっていけるという人もいる。
それらを持つかどうかは、その人の気質、考え方や選択の問題と自分は思う。
岡本太郎さんは、「無条件で生きろ」、「その瞬間に全てを懸けろ」と言う。
人間は、必ずしも何らかの大事業を成し遂げなくてはならないわけではない。
むしろ、現代社会のように経済発展や便利も行き過ぎると、
格差社会問題や地球温暖化問題が発生するなどいいことだけがあるわけでない。
人やその社会は、ほどほどで維持することができない気がする。
ついつい、頑張り過ぎたり、行き過ぎてしまう。
自分の行動に対する自分の「判断基準」の要不要についても同様のことが言える。
それを持っていてもいいし無くてもいい。
自分は、HSS型HSP気質的な要素があるので、一定の個人的な判断基準があったほうが生きやすい。
「目標」も少しプラスα頑張れば届きそうならものなら努力も続くので、
あったほうが明快で生きやすい。
馬の鼻の前の人参ぶら下げ話のように。
目先世の中の動きは短い時間軸において日和見的に変化する。
変わり身の早い「世論」や「世間」という実態のないものが、
日和見的に変動しながら、大きな顔して、その流れに従わせようとするかもしれない。
そのような時、それが自分に攻めてきても、判断がブレないよう、
「判断基準」があると無防備に流されないで済む「杭」となる。
個人的な判断基準も絶対的なものと相対的なものがあると思う。
判断基準は、部分修正可能な絶対基準があった方が自分は生き易い。
完全な相対基準にするとブレが大きくなり結局無いのと対して変わらないものとなる。
ただ、絶対基準も根幹は変えず枝葉部分は修正できるほうが良い。
「世間の変動」の元となる大河である「時代」は、常に変化しているから。
変化の「波」に乗って生きていくのがポイントだと思う。
大きな流れに逆らって生きてはいけない。
例えば、「俺は、年寄だから、パソコンやスマホはつかわねぇ。
昔はそんなモノなくても生きてきた。」と気張っても無意味だ。
自分の判断を、過度に縛り付けず、必要時は役に立つ判断基準や尺度を持つほうが楽と思う。
いちいち悩む時間がもったいないし、じっくり悩んでも結果は対して変わらないかもしれない。
ダメだったら、その時修正すればいいだけ。
自分のような気を許すと堕落する人間は生活のリズムを安定させるのにも活用したい。
例えば、起床時間。
仕事に就いている時は、義務感や責任感で朝も起きられるが、.
無職となり自由な時間となるとルーズになりがち。
夏なら5時、冬なら6時とか決めておくとそれを守ることで生活リズムを築きやすくなる。
自分に自分が作ったルールを守るよう仕向けたほうがまだ楽だ。
自立できる人や目的意識が高い人なら不要なことかもしれない。
そして、自分を導く拠り所があるといい。
メンターや師匠という存在を超えたもの。
哲学や宗教(自分は無宗教)
「自分が導かれている」ことを知るのは基準より上位に高価があると思う。
「自分が・・・」と力んでいないだろうか。
そういうのがある人やそう考えている人は生きやすいと思う。
メンタルが弱い人は、自分固有のものでもいい、
自分を導くような存在があると逆境のときもそれがり所となり再起しやすいと思う。
ただ、必要以上に特定の宗教に、過剰にハマらいないよう注意だ。
三日坊主の人間である自分には務まらないが。
HSS型HSP気質の人間はのめり込むとそれしか見えなくなる恐れがある。
そうならないよう適当な距離感を持とう。
騙されないように注意。
少しでも、楽に、前向きに、楽しく生きていけるように、
今自分ができる最善を尽くせ。