誰でも経験することかもしれないけど、仕事をやっていると上司から、
的外れな発言や指示をされることがある。
たまに起きることや本質的でないやり過ごすことならまだしも、
大きな課題であるのに現場状況を把握していないなと思うことを言ってくる事がある。
まあ、知っていて無理を言うこともあろう。
「思うこと」が自分の主観である場合もあるが、現場サイドでは実施困難なこともある。
進言しても、意に介さず自分の立場を守ることを優先に言ってくる。
頻度や程度によるが、やる気が削がれる。
逆に、自分も気を付けないといけないと思う。
無視や放置できる案件ならそれでいいが、そうでないと対応がキツい。
自分の考えややりたい方針と違うことを、現場の人に指示をしないとならない場合がでてくる。
「木を見て森を見ず」
文章の表現間違いなど、些末なことの指摘は細かくするが、
現場に起きた問題解決は人任せ。
それでいて、それに導く提案をしても、
反対するだけで、代替案は示さずそれにつながる道筋を示さない。
自分が間違っているときもあろうから、その場合、説明してもらえれば承服できよう。
指示や命令は聞かなくてはならない状況下では、「理不尽」を感じることがある。
「理不尽」 は起きる。
仕事上だけでなく日常普段生活でも 「理不尽」 は起きる。
自分に基準や状況があり、相手にもそれがある。
そこに「溝」が発生し、その溝を埋められないから発生する。
溝は、「問題の共有」、「調整」、そして「同意」や「合意」の流れで進む。
互いの基準や認識のずれで問題の共有ができていないと「理不尽」が起きやすい。
そもそも人の世は、自分の思い通りにならない。
それを思い通りにしようとするから理不尽を感じる。
~ 山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に掉させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。 ~
この後は、「昇華」へとつながる。
「負」から「正」へ。
理不尽が発生することを無くすことはできない。
が、減らす工夫はできる。
理不尽に耐えて、自分を鍛えることができる場合もあるだろうから、
その利益・不利益のバランスを超えたら、その発生源から遠ざかる。
理不尽を発生する人から離れる。
極端な例で、ブラック企業なら辞める。
ブラック企業は、「理不尽」を超えてはっきり「不利益」「被害」を被るレベル。
我慢して大人の対応はしているが、限界もある。
「逃げた」と「尻(ケツ)を割った」と誹られても辞めていい。
ある著書には、理不尽を多く経験すれば、能力が上がるとあるが、
忍耐は必要であっても、一定以上は精神衛生上よくないと思う。
理不尽と感じる基準は人それぞれ。
「喜んで!」と言って、マイナスをプラスに変える力(意欲)があれば、
どんなことも貪欲に受け入れ突き進む実力があれば、
あるいは、その実力を養っていこうという意欲があればいいのだろうが。
一方で、正直に真に受ける人と違って、要領よくスルーする(躱す)人もいる。
耐えるより、「選択」してスルーできたほうがいい場合が多い気もする。
スルーすべきことはスルーする。
場合によっては、立ち去る(すっと逃げ去る)べし。
「君子危うきに近寄らず」
たとえ、「知識」や「教養」が無くとも危険を感じたら自発的に立ち去る。
いや、「落とし穴」が多い人の世では、
知識と経験を積んで、立ち去ったほうがいいと
判断できるようにしておくことが必要かも。
追加
「軽微」な「理不尽」には、気持ちを切り替える魔法の言葉、
「気を取り直していこう」でシフトチェンジ❗
追加2
悪い出来事や不条理と感じることの「原因」を
全て「他人」や「運」のせいにしてしまいがちだが、
自分に「原因」はないだろうか?
冷静に客観視し整理することが大切だ。
自分の気質を客観的に捉え、
本質的な問題解決に向け論理的な行動をとる。
☆ 参考YouTube ① 人に理不尽にされた時の対処法【精神科医・樺沢紫苑】 ② 理不尽な仕打ちに耐える力が未来をひらく【仏教の教え】